尿検査に祈った日
「・・・残念ながら反応が出ていません」
名前を呼ばれて院長室に入った私の目に飛び込んできたのは、机の上に置かれた検査薬。
私の名前が書かれたその検査薬には赤い線が一本しか入っていない。
未だかつて見たことのない、『陽性』を示す二本のライン。
この日を何度も何度もシミュレーションしてきた。夜眠るとき、布団に入ったらまずすること。
院長に呼ばれ、「おめでとうございます。妊娠していますよ。」と告知され、二本のラインが入った妊娠検査薬を渡される。喜びで胸が高鳴り歓喜に包まれ、でも頭の一部はどこか冷静でこの先の段取りを考え始める。そんな練習を何度も繰り返してきた。
今までよくこの「未来の先取り」方式で願いを実現してきた。
小さいところではゲームセンターのUFOキャッチャー。狙った獲物を獲得して喜ぶ姿を想像しクレーンを動かす。
大きなところでは結婚や資格試験。理想の伴侶と結婚をし生活している姿や、資格試験に合格し合格者インタビューを受けている姿を想像し現実を動かす。
「ない」ことにフォーカスするのではなく、願いが叶った状態に自分を置く、という一時期流行った引き寄せの法則のようなものだ。大抵のことはこれで乗り切ってきた人生だと自負している。
(・・・やっぱりな)
残念そうに眉をしかめる院長の説明を聞きながら、まず頭に浮かんだのはこの言葉だった。毎晩妊娠した状態をシミュレーションしながらも、どこかで「私に妊娠などできるのだろうか」と可能性を信じきれていない自分を認識していたからだ。うわべで良い未来を想像したところで、潜在意識でそれと真逆の信念を握りしめていたら叶うものも叶わない。当然の話だ。
院長は丁寧に今回ダメだった原因を見つけようとしている。
受精卵の状態は悪くなかった、ホルモン薬も実績が出ている方法で処方している、子宮内膜の厚さも十分だった・・・
ただ、30代後半になると受精卵の半分は質が悪いものであり40代になると半数は育たないものだと考えた方がいい、だから年齢が上がるにつれて妊娠率が下がっていく。
そうすると数をやっていくしかない。というなんとも納得できる説明をしてくれた。
妊娠は生命の神秘であり神のみぞ知る未知の領域であるが、どうも受け皿側の準備が整った状態でないと成立しないのではないかという気がしてならない。
もちろんそうでない場合も多々あると思うが、自分に当てはめて考えるとそう思うのだ。身体の準備はもちろんのこと、心の準備の必要性が占める割合は大きいのではないか。心の準備、の中には色々なものがあるがそのうちの一つが「可能性を信じることができるか」ということだと考えている。
自分に妊娠出産する力があると信じること
責任を持って人間性豊かに育てること
子を一人の人格を持つ存在として意志を尊重すること
人生を謳歌し楽しむこと
少々大げさかもしれないが、自分と子と周りの人たちの可能性を信じることがまず第一歩なのではないかと思う。
何よりトツキトウカ胎(はら)の中で育み一体となって過ごすのだから、母体が母体の可能性を信じることがとても大切なのではないか。
栄養をとりたくさん寝て精神を健やかに保つということは当然に継続するとして、まだ見ぬ子をこの世に生み出すためにこの言葉をスローガンとして掲げる。
信じて 委ねる
次の移植は年明け。受精卵はあと三つある。